第4回 夜明けの後に残るもの『わたしの時間旅行』
第4回 夜明けの後に残るもの
『わたしの時間旅行』山本容子(マガジンハウス)装丁:K2(長友啓典+十河岳男)
絵をみるのは好きなのに、画集というものがちょっと苦手だ。
たいてい高価だし、かさばるし。
欲しくても手に入らない、あるいは所有すること自体に勇気の要る、自宅の本棚には入りきらないような大型本だって、ずいぶん多い。過分に豪華で扱いに気をつかうのも、びかびか目立ちすぎるのも嫌いだ。
特に個人の画集を集めるのは、好きな画家でもどこか気が重い。着物にこるような怖さがある。
『わたしの時間旅行』は、例外だった。
よくある四六判で、インタビューのようなエッセイやコラムが一緒におさめられているから、「眺める」本というより「読む」本というほうがしっくりくる。
400ページをこえるボリュームだけど、威圧は感じない。
いつもは他の本の間に紛れて、存在感があるのかないのかわからない壁みたいな佇いで、10年以上前からずっと手元にある。
でももし本当にこの本を失くしたら、大切な場所がぽっかり空いたみたいに、私はたまらなくさびしいと思う。

時は2001年。
ルイ・ヴィトン表参道ビルの建設中の仮囲いを大胆にもスクリーンにして、「ある〈野外アート〉の実験」が始められた。
最先端の技術でシステム制御された光ファイバーをつかって、作品を投影するという試みである。
昼間は何もない真っ白な工事現場の壁に、日が沈むと一番星が浮かぶようにポツンと小さい絵があらわれる。
毎日、1点ずつ、新しい絵が追加される。
やがて一年後、日常の風景は一変し、光のアートが街にあふれる――。
なんて贅沢な、大人の遊びだろう。
道行く人は誰も気がついてくれないかもしれない。それでもいいと思った、と山本容子は巻末の回想で述べている。
展覧会のテーマは「旅」。有名な旅行鞄の歴史を持つルイ・ヴィトンにちなんだものだという。
馬車や自転車、船、自動車、列車、気球、飛行機など、人間の「足」を無限にひろげた乗り物の歴史。19世紀から1960年まで、パリの都に花開いた文化と芸術、科学の発展を描いた時間旅行。
そうして発表された377点の銅版画を、一冊にまとめたのが本書である。
ところが、本をひらくまで、そんなことはいっさい読者に説明されない。
ふっくらした温かみのあるクリーム色のカバーには、ただ、文字だけが並んでいる。
「Bon voyage」
美術ファンでなくても、これはヤマモトヨウコの絵だとすぐわかるほど有名なアーティストの画集なのに、なぜ文字だけの装丁にしたのだろう。
なぜ、何度も繰り返し同じことばが書きつけられているのだろう。
「Bon voyage」
外国の雰囲気をまとった、身軽な、旅行者のような文字。
キャンディの包み紙みたいに、のん気で、歌が好きな女の子を思わせる文字。
大文字のアルファベットで書かれたもの。
筆記体のもの。
書きかけてやめたもの。
孤独なもの。
どれひとつとして同じ表情はない。
右上にある『わたしの時間旅行』という日本語のタイトルと、著者名は、まったくイメージのちがう楷書体だ。
この装丁を初めてみたとき、実はそれだけが気に入らなかった。
文字の朱色が「Bon voyage」の油っぽい土の色味とは対照的で、きゅうに厳粛さをおびる。
不老不死を願う古代の色。
生前者の名前が刻まれた墓石みたい。そう思った。
しかしその違和感は、ページをめくるにつれて、次第に別の印象へと変わっていく。
勿論、本の中では絵が光るわけではない。大きなパノラマのように集合体を見渡せるわけでもない。
エリック・サティ、ロダン、チャップリン、フロイト、ディアギレフ、フレッド・アステア、カンディンスキー、ボリス・ヴィアン。
私たちの記憶にのこる音楽や文学、映画の中に登場する人々。生きた証を世に刻んだ人々が、ひとりずつ、軽やかなステップで戯れるように、明るくユーモラスに描かれ、そこには彼らの名言やエピソードとともに、生年と没年が記されている。
時代をつくったもの――それはつまり無数の死者なのだ。
幽霊たちのダンスパーティさながら夜ごと繰りひろげられる、儚い夢絵巻。
物語の夜明けが近づくにつれ、なぜか厳かな気持ちがわいてくる。
そして、彼らが光のポートレイトとして現代によみがえった、表参道の夜を思い浮かべる。
それはきっと灯籠流しのような光景だったにちがいない。
「Bon voyage」
このことばは、過去への招待ではなく、未来に向けて残されたメッセージでもある。
タイムトリップをする鑑賞者は、死者と区別された「わたし」自身であり、いまも壮大な時間旅行の旅路にいるのだ。