第5回 さわりたい『夜の甘み』
第5回 さわりたい
『夜の甘み』伊藤啓子(港の人)装丁:関宙明
目に入った瞬間、さわりたい、と思ってしまった。
「きれい」とか「感じがいい」とか、そんな第一印象をもつ本ならいくらでもあるが、もっと、ずっとインパクトの強い、本能的な欲望。
さわりたい。
がまんできなくて、指の先で押すようにそっと触れると、ちゃんと小さな窪みがある。
なんだかうれしい。
そして、ちょっとほっとした。
欲しい。自分のものにしたい。その気持ちに水を差されなくてすんだ、という気分。

まるで画用紙のような手触りのカバーだ。
えんぴつ(たぶん)でうすく塗りつぶされたグレーの部分から、『夜の甘み』というタイトルが白く浮かびあがっている。
潔いシンプルなデザインという範疇に当てはめることは易しいが、それにしても、なんという慎み深さよ。
横に小さくそえられた作者の名前にいたっては、目をこらさねばはっきりと見えない。余計なお世話だがちょっと心配になる。
詩集というジャンルには、文字だけの装丁がわりと多いのだけれど、この文字がまとっている風情は独特だ。
読み手がどのようなイメージを受けとるか、いかにも確信的ではあるが、デザイナーの主張が強すぎるほど奇矯な意匠ではない。
私は、すぐにテレビの推理ドラマを思い出した。
事件の現場はマンションの一室。
一枚破りとった形跡のあるメモ帳の面を探偵が鉛筆でこすると、謎の数字や名前が出てくるあれのこと。
そこには事件の手がかりとなる重要な言葉が残されているのだ。
以前、美術の時間に習った気がするけれど、「フロッタージュ」という絵画技法にも雰囲気がよく似ている。
表面が凸凹している物体の上にうすい紙をのせ、鉛筆やクレヨンを塗り重ねて対象物の形状を「こすりとる」(frottage)。
子どものころ、この方法をつかって、10円玉や葉っぱの絵を描いた記憶がある。
日頃は気にもかけないものに輪郭が与えられ、硬貨に刻まれた小さな文字が、葉脈が、おどろくほど細密に、くっきりと浮き出てくるのがおもしろかった。
見えないところに潜んでいたものを発見したようで、うれしかったのも憶えている。
山形在住の詩人・伊藤啓子の第四作目となる『夜の甘み』は、そんな密やかな模様を光にさらすように、人生の細部を見事にうつしとった詩集だ。
それは人間の生身と隣り合わせに漂う死の気配だったり、言葉では説明し難い、奇妙な感情だったりする。
開けた窓から涼しい風が入るのに/妙に暑苦しくふらふらと階下に降りた/冷えたビールを取り出してぐびりと飲むはずが/戸棚の羊羹に手が伸びていた(夜の甘み)
かわいい子犬をもらった/ライチ、と名付けたという手紙をもらったとき/厭な気がした/ああいう女は生き物を飼わないほうがいいのだ(理科少女)
「羊羹」も、「ライチ」も、何気なく書かれているけれど、妙に生々しく、不穏な空気を孕んでいて、その言葉がかきたてる意外なイメージに目をみひらいてしまう。
舞台の上で死者を演じる女。かつて兵隊だった「みきおさん」。「何か食べているところばかり見かける」不思議な夫婦。雨の日に遊びにくる「さゆりちゃん」。
この詩集には、まるで短篇小説のように、さまざまな人物が登場する。
冷めた目線で描きだされる過去と現在。
平凡な日常にかくれている一瞬や、子どものころの記憶。
隣の家を覗き見ていた感覚が、いつの間にか自分の思い出と重なってゆく。
実際私は、むかし住んでいた家の階段や、台所や、風呂場の光景をしみじみと思い浮かべた。
なつかしい家の中は完璧な無音で、夜のはずなのにずっと仄明るい。
家族は寝静まったあとなのか、私以外に誰もいないのか、想像では確かめる術もない。淋しいような、心地いいような気持ちで味わった。
電車がトンネルに入る瞬間/決まって 少女はちいさく声を出す/「あ」でも「け」でも/「も」でもいい/その朝の気分/周りの友だちに聴こえぬように/電車通学をはじめてからの秘密の儀式 (夏列車)
詩の本文につかわれているのも、カバーの題字と同じ「岩田明朝体」という書体だ。
活版印刷ならではの美しい存在感が、ありふれたひらがなに強度を与え、心の内で鳴る音の効果をいっそう引き立たせている。
確かに活字は凸凹しているものだけど、本物の字型を「えんぴつでこすって活字のかたちを浮き出させる」ことはもちろん簡単ではない。
印刷で表現するためにはおそらく相当なまわり道をして、いわば技術の模倣を行ってまで、このイメージにこだわりながら、えんぴつらしさがより際立つであろう手書きの文字ではなく、あえて活字を対象物にしていることに気づかされる。
それは読み手の目と、詩の世界を地続きにしようとする企みである。
三次元の美しさを絵にうつしとることと、この時代に活字を並べて詩を編むことは、離れていても遠くから見れば同一線上にあるのだろう。私たちが気づかないだけで。
その相似に共鳴するひとがこの本を手にとったなら、言葉の世界に思いがけない模様を発見し、詩を読むよろこびを分かち合うことができるにちがいない。