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第6回 反響する文字『ノルウェイの森』

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第6回 反響する文字『ノルウェイの森』

第6回 反響する文字

『ノルウェイの森』村上春樹(講談社)装丁:著者自装

『ノルウェイの森』である。

鮮やかな赤と緑の装丁があまりにも有名な、この作品も、ご覧のとおり文字だけの装丁だ。しかも「著者自装」だという。

 画家やイラストレーターが自分の本の装丁を手がけることはよくあるけれど、小説家による自装本の例はそれほど多くない。

『ノルウェイの森』の初版が発行されたのは1987年。

当時の文芸書ではありえなかった、ビリヤードの玉みたいなツルツルしたカバーも、対照的な赤と緑のクリスマスカラーも、「こんな装丁では売れませんよ」と出版社から忠告されたというエピソードを作者自身が語っている。

 ところが蓋をあけてみれば、『ノルウェイの森』は空前のベストセラーとなり、社会現象ともいえるほどのブームを生みだした。

――と書くのは懐かしいようで、私にとっては、何だか自分が勝手に捏造した記憶みたいに思える。そのころ私はまだろくに字も読めない子どもで、そんなブームとはまったく無関係だった。

若者の間では『ノルウェイの森』を持っていること自体がステイタスだったとか、恋人へのクリスマス・ギフトとして人気だった、などという話を聞いても「フーン」という感じでいまひとつピンとこない。ホントかね、というのが正直な気持ち(ほんとうにプレゼントしたりされたりした思い出があるかた、すみません)。

だからこの小説が「変わった装丁のおかげで売れた」と言われることには、ちょっと違和感があった。

もう少し大きくなって『ノルウェイの森』を学校の図書室で読んだときには、光沢紙のカバーが珍しいということさえまったく気づかなかったほどだ(図書館の本は大抵ツルツルしているんだもの)。

 でも改めて眺めてみると、確かに大胆な本である。

上巻は赤に緑の文字。

下巻は緑に赤の文字。

まったく正反対の色なのに、隣り合わせに見ると、文字が背景に沈みこんで読みづらく感じる。

眼鏡やコンタクトレンズをつくるとき、「赤と緑どちらがはっきり見えますか」と質問される検査みたいだ。

いわゆる「目にやさしい」グラフィックデザインのセオリーからは完全に外れているというか、プロのデザイナーなら、こんな配色にはしないのではないだろうか。

できるだけタイトルを目立たせたい、と考える出版社が反対した気持ちもわからなくはない。

だけど不思議なことに、20年近くも前にこの本を読んだ私が、最初に思い浮かべるのは、よく見えていなかったはずのタイトルの文字なのである。

 この物語は、37歳の《僕》が、ドイツのハンブルク空港に着陸した飛行機の機内で流れたビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、18年前の記憶を呼び覚まされる場面から始まる。

 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。 (中略) それらはあまりにもくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。

 自殺した親友の恋人「直子」を愛しながら、対照的なもうひとりの女性「緑」に惹かれてゆく。

そんな《僕》の気持ちに気づいたかのように、直子は死を選んだ。

 上巻と下巻のイメージが対になっているというアイデアを実現するだけならば、文字の色は黒でも白でもよかったはずだ。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 この装丁が伝えようとしているのは、「色」そのものではない。

相対する色の反響によって境界が曖昧になり、本来の輪郭が損なわれた「文字」のイメージであり、その心理現象を作品の内容と結びつけられることが、ほんとうに「画期的」だったのだと私は思う。

そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。

 37歳になった《僕》が、彼女の顔より先に思いだすのは、〈ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)〉。

 私にとって、これらの描写が特に強く印象に残っているのは、『ノルウェイの森』というタイトルの文字が、まるで風に耐えているように、あるいは何度も指でなぞったあとのように見えるからだ。

気のせいではない。

遠くからではわからないけれど、本を手の中で見ると、線のふちがひどく傷んだように文字が欠けている。

読者が長い小説を読んでいるあいだ、BGMのようにずっと目には見えていても意識しないもの――本来、大きなサイズでつかうことは想定されていない本文用の活字を、おそらく清刷りから拡大したことによって、このように不安定な緊張感が生まれたのだろう。

そのアンバランスは、狭い室内で反響する弦楽器の音を想像させる。

 当時の状況を考えれば、印刷には版下が必要であり、それは手作業で行っていただろう。

実際に文字を切り貼りしたり、書体を指定したのが本人であったのかどうかはわからないけれど、タイトルと著者名とは書体を変えているところもいい。

著者名の文字も同じような大きさなのに、線は太く、輪郭は鮮明だ。自信にあふれて毅然として見える。そのコントラスト。

もしタイトルが別の書体だったなら――たとえば力強いゴシック体の『ノルウェイの森』だったら、あるいは丸ゴシック体であったら、聴こえてくる音はまったく違っていただろう。

《僕》の記憶を呼び覚ます鍵は、なぜ「ノルウェイの森」でなければならなかったのか。

その答えを探し求めるような気持ちで、私は「なぜこの書体なのか」について考えている。

2015年9月18日

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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

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