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第9回 嫌いになれない『嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第9回 嫌いになれない『嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』

第9回 嫌いになれない

『嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)岸見一郎/古賀史健 装丁:吉岡秀典

 真っ先に目に飛びこんできたのは「嫌」(いや)という文字だった。

おそらく、ふつうは読み間違えしにくいように文字を配置するものじゃないかと思うのだけど、わざと不自然なところで改行してある。その勇気に、ちょっと笑ってしまった。

だってタイトルが『嫌われる勇気』。

眺めていると、文字までなぜか好戦的に見えてくる。

でかでかとかかれているわりに線が細いのは何か裏がありそうだし、タートルネックのセーターが首にチクチクするみたいな感触なのも(あくまで文字が)、いけすかない。

ビジネス書というより、学校文集みたいな既視感のあるカバーも気になる。

温度の低い青。抜けるような澄んだ空の青ではなく、嵐で濁った海の青。その一部を修正液で塗りつぶしたような白い文字は、得体の知れない浮遊物みたいだ。

一方、「アドラー」という重要な(はずの)キーワードも、作者の名前も、出版社名も、周囲の色によって低く沈み、読むのにストレスを感じる。予定調和を破壊する、さまざまな思惑が水面下で渦巻いている。

 本を読むということは、決して癒しなんかではないと思う。

そこに渦があると知りながら、冷たい海に身を投げることだ。

ページを開けば、自分の無知に気づく現実や価値観があり、感情を揺さぶられる物語があり、ときとして世のなかの理不尽さをつきつけられる。どちらかといえば、ありのままの自分を肯定されることよりも、否定されることのほうが多い。

なのになぜ、人は読書に喜びを求めるのだろう。

 変な感想かもしれないが、それは私が本書を読んで感じたことだ。

『嫌われる勇気』というタイトルを聞いたとき、最初は、あまり自分と気が合いそうにない本だと思っていた。

人から嫌われることを恐れずに、好きに生きればいいって話でしょ?

それができれば悩んだりしない、そんな無責任なことを言われても、という気持ちだったし、しかもその本がすごく売れているらしい、と知って「えーっ」と思ったほどだ。

それで手にとったのは、いや、まんまと挑発にのってしまったのは、この「いけすかない」装丁に、作り手のまっとうさを感じたからである。

 だって、考えてみてください。

これがもし、雲ひとつない青空に、虫も殺さぬ顔をした美少年みたいな装丁(どんなのかわからないけど)だったらどうですか。うそくさくないですか。

嫌われる勇気をもてば幸福になれる、とうたっている本なのに、誰にも批判されることがないような、無難な装丁だったら、その本、信頼できますか。

いかにもいいひとぶっている本の「欺瞞」は読者にもすぐ伝わるものだ。

作り手に愛情と自信があるからこそ、万人から嫌われないための装丁ではなく、その本らしくあるための装丁に徹することができるのだろう。

そして、そういう本こそが、これは他の誰でもない私と出会うために生まれてきたのだ、という幸せな幻想を抱かせることができ、かつ多くの人に受け入れられるという不思議。

装丁もまさに「アドラー流」なのである。

「人間のすべての悩みは対人関係の悩みである」とするアドラーの思想を説く〈哲人〉と、率直な(ときには喧嘩腰で)意見や疑問をぶつける〈青年〉との対話によって本書は進む。

フロイトやユングと並んで「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーというひとを、恥ずかしながら私はよく知らなかったけれど、読み進めるうちに驚いた。

この本に書かれていることは、「人はなぜ苦しくとも本を読むのか」という問いへの答えであるように思えたからである。

 たとえばアドラー心理学の基本前提となる「目的論」。

人間の感情や行動は過去の原因から生み出されるという「原因論」を唱えたフロイトやユングに対し、アドラーは「全ての感情や行動はある目的を達成するために生み出される」と考えた。

他者とのコミュニケーションが苦手で家に引きこもっている人は、過去のトラウマが原因で外に出られないのではない。「外に出ない」という目的を達成する手段として、不安や恐怖の感情をつくりだしているのだと。

私はそれを本とのつきあいかたに当てはめて読んだ。

本を読みたいのに読めないと大人が嘆くのは、忙しくて時間がないからでも、おもしろいと思える本が見つからないからでもなくて、ほんとうは本を読みたくないから、時間がない、つまらないという感情を自分でつくりだしているのではないか。

「このままのわたし」を否定して、変えてしまう何かを見つけるのが怖いから。

でも自分がそのことを認めていないだけなのではないか。

「線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです」と〈哲人〉は語る。

その考えも、「人生」という言葉をそのまま「本」に置き換えることができる。

自分が劇場の舞台に立っている姿を想像してください。このとき、会場全体に蛍光灯がついていれば、客席のいちばん奥まで見渡せるでしょう。しかし、自分に強烈なスポットライトが当たっていれば、最前列さえ見えなくなるはずです。

われわれの人生もまったく同じです。人生全体にうすらぼんやりした光を当てているからこそ、「過去」や「未来」が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう

 私たち大人が本を読んで感動することが少なくなったと思うのは、経験を積んで新しい刺激に慣れたからでも、感受性が失われたからでもない。本を読むということが、知識や教養を得るといった目標や、理想を掲げて、目的地にたどりつくまでの途上であるかのように考えているからだ。

子どものころは、その日、そのときにめぐり会った一冊だけを、「真剣に、丁寧に」読んでいた。

何かを達成しよう、あるいは特別な何者かになろうとするためではなく、ページを開いたその瞬間から、目の前に並ぶ一文字、一文字とともにある「いま」そのものが読書だった。

だからこそ、ひとまわり大きな、豊かな本の世界にどっぷりと浸かり、濃密な時間を過ごすことができたのだと思う。

 もちろんアドラーは、このような読書論を展開するつもりは毛頭なかったに違いない。

でも「生」という言葉は、その大きくて海のように捉えどころのないものは、あらゆる体験に置き換えることが可能なのだ。

恋でも、音楽でも、仕事でもいい。本質をきわめて個人的な「点」の話に結びつけられることが、何よりも「真理」を語っているという証明であるように私には思える。

だから理論の要旨や結論を先に知っても、理解するのは難しい。

わかっても、わからなくても、自問自答を繰り返しながら、自分の手でページを手繰るシンプルな営みに答えが隠されている。本書の最後で「幸福になる方法」がついに提示されるとき、読者は不思議なカタルシスを覚えるだろう。

 ちなみに、タイトルにつかわれている文字は、特別なものでもなんでもない。

ごくスタンダードな本文用書体で、私にとっては、デジタルフォントの代表格というイメージだ。

その文字を見て、いけすかないなんて思ってしまったのは、活字や写植を忘れられない私が、変わりたくない自分への言い訳のためにつくりだした感情ではないだろうか。読み終えたとき、私はそのことに気づいて、深くうなだれた。

「いま、ここ」にスポットライトを当てることは、自分にしかできないのだ。

2015年12月18日

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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

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