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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第11回 袋の中身『悪人』

第11回 袋の中身

『悪人』(朝日新聞社)吉田修一 装丁:町口覚

  実のところ、この本に関しては、初対面で何を思ったのか覚えていない。

読後の印象が強すぎて、思い出せないのだ。

文字だけの装丁だということも後から気づいたほどである。

はみださんばかり(実際、はみだしている)の、大きな「悪人」の文字。

一色で染められた鮮やかな赤が、いかにも忌まわしいことが起こりそうな不吉な空気を漂わせているのに、錦織りのような光沢のある明るい背景のせいだろうか、紅白の晴れがましさも感じられ、まったく悪びれていない「悪人」である。

  特に「人」という字がさまざまに見えるから面白い。

たとえば、峠をまたぐ険しい道。ふたつにわかれた道は、逆の方角にのびている。

たとえば、峠を越えてゆく者。大きな足をひろげて、どこかへ急いでいるところ。

あるいは、その長い脚が、時代劇にでてくるお奉行様の長袴にも見える。

「悪人」という言葉なのに、悪事をはたらくひとだけでなく、悪を裁くひとまで連想させるのはなぜだろう。

説明するのは難しい。

難しいけど、ただひとつ言えるのは、この本を読む前と後では見え方が違うってこと。そういう力をもった小説であるっていうことなんだ。

  吉田修一は、デビュー当時からほぼリアルタイムで読み続けている作家のひとりで、なかでも『悪人』は、私が育った福岡も舞台になっているから特別な思い入れのある一冊だ。

駅前や郊外の描写、耳慣れた言葉、登場人物の行動範囲、名前のつけかたひとつとっても、ひどく納得してしまう。ああ、やられたと思ってしまう。

出会い系サイトで知り合ったふたりが初めて出会う場所に「ソラリア」というファッションビルを選ぶところなんて、絶妙である。

場所を指定したのは、福岡市内で保険外交員をしている若いOLの佳乃。実家は久留米市で理容院を営んでいる。

一方の相手、長崎の漁村で生まれ育った土木作業員の祐一には「ソラリア」が通じない。

それを知った佳乃は、「一瞬、会うのが面倒な気がした」。

  この「面倒」な感じ。かすかな期待に水をさされる感じ。わかる。

私の通っていた中学・高校は福岡と佐賀の県境にあり、県外からも生徒が集まっていたので、都会の子と、そうでない子とのあいだには、仲が悪いわけじゃないけど、微妙な隔たりみたいなものがやっぱりあった。通学時間も、門限も、よく遊ぶ場所も。でも気づかないふりをして、同じ制服を着て笑っていたころの、ちょっと胸がざわつく感じ。

他の都市にもある「三越」や、吉田修一の別の作品に出てくる「バーニーズニューヨーク」のような高級デパートではなく、「ソラリア」なのがいい。

博多・天神の街に詳しくない多くの読み手は、ここで「自分も知らないよ」と思うだろう。

地方都市のファッションビルひとつを知っているか否かが所属するグループを定義してしまうような世界で、その圏内にいることさえ気づかずに生きている彼らを、冷徹に俯瞰するだろう。

視野狭窄に陥るローカリズムを見くだすような視線。その感情を心の隅に芽生えさせたのは、もちろん、したたかな著者である。

  県境の峠で殺された若い女。

関係者の証言から重要な容疑者として挙がる大学生の男。

彼らを取り巻く家族や、職場の上司や同僚、風俗嬢や友人たち。

殺したのが誰なのか、読み始めてしばらくは知らされない。

だから冒頭はミステリー要素が強い逃亡劇なのかなと思う。

しかし徹底的に「鳥の眼」を貫く著者は、色糸が織りなす群像を丹念に描きだし、万華鏡のようないくつもの様相に気づかせる。

この長編小説には、詐欺や殺人や買春などに手を染めた実にさまざまな「悪人」が登場するが、その背景には罪に至るまでの理由があり、加害者であると同時に被害者でもある。

そして実は被害者にも多くの嘘や欺瞞があり、誰かにとっては加害者にもなる。

「どっちも被害者になることはできない」と祐一は言う。

世間で言われとる通りなんですよね? あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ? そうなんですよね?

  祈るように問いかけられた読者の誰もがきっと答えに窮するだろう。

目の前につきつけられた鏡に映っているのは、悪を裁くことで得るカタルシスへの欲求を自覚しながら、安全な場所で見下ろしている衆人の姿だ。

自分の目に見えるものを真実だと考える人間は、純粋な愛情や善意さえ容易に歪めてしまうのだろう。

「あら、また来てくれたと」

美保が愛想笑いを浮かべると、祐一は小さく頷き、なにやら手に持っている紙袋を差し出してくる。

「何、これ?」

美保は何かヘンな道具でも入っているのではないかと、多少注意しながら受け取った。

受け取った瞬間、思わず悲鳴を上げそうになった。予想に反して、紙袋が生温かかったのだ。

思わず投げ出そうとした瞬間、「ぶたまん。ここの、旨かけん」と祐一がぼそっと呟く。

  風俗店の個室のなかで交わされる会話。

私はこの場面を読んで、なぜか唐突に「ソラリア」のことを思い返した。

あのとき、佳乃が待ち合わせ場所に「ソラリア」を選んだとき、約束の時間よりも早く来て待っていた祐一は、いつかの私でもあった。

見下ろしながら、自分の記憶に嘘をついていたのではなかったか。

公平な読者ではいられない、人には見られたくない部分が――「悪意」と呼ぶには大げさで、だからこそ誰もが知っている何かが、紙袋のなかからごろりと出てくるのではないかと思って、ドキッとした。

本書の装丁を見る目が変わったのは、そのときからだと思う。

2016年2月22日

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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

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