第12回 生まれ変わる 『スフィンクス』
第12回 生まれ変わる
『スフィンクス』(新潮社)アンヌ・ガレタ/吉田暁子訳 装丁:望月通陽
あれ? よく見たら、今回は「文字だけの装丁」じゃないじゃない。
そんな声が聞こえてきそうだ。
はい。すみません。おっしゃる通りなのだけど、この本について書くのならきっと許されると思う。
タイトルは『Sphinx』、作者は「Anne Garréta」。
小枝で砂に書いたようなアルファベットの文字。
素朴な線のまるいかたちには、どこか太古の植物を思わせる風情がある。

さて、さっそく懸案なのは、タイトルと著者名とのあいだに何食わぬ顔つきで鎮座する三つの絵……というか、記号……というか、とにかく私はそれを一目見たときから、文字だと信じて疑わなかった。
直感的にそう思ったとしても不思議ではない。
その理由は、明らかに同じ人物(文字だけでピンときた方もいらっしゃると思うけれど、装丁は望月通陽さんである)の手によって整然と一体化しているからだろうし、あるいは「スフィンクス」という言葉から神話やピラミッドを連想して、はるか昔に刻まれた象形文字のイメージが頭のなかで自然と結びついたとも考えられる。
だけど私は、本を手にしたとき、こんなふうに思ったのだ。
これが文字に見えるのは、ほんとうに、何かの意味を持っているからじゃないだろうか。
読んだひとにだけ、答えがわかるのではないだろうか、と。
ところが、予想は冒頭からあっけなく裏切られる。
この小説の舞台は、古代メソポタミアでも、エジプトでもないのだ。
パリの夜。
それもあどけない文字のムードからはまったく想像できない、大都会のデカダンスな夜である。
あるナイトクラブでおこったディスクジョッキーの死。
その隠匿を手助けしたことがきっかけとなって代役を任された「私」は、地下で妖しく蠢めく猥雑な世界にどっぷりとはまってゆく。
そんな「私」が狂騒の夜の底で出会ったダンサー「A」。
全体の構成が愛の回想記というかたちをとって描かれているのはいかにもフランス文学らしく、美しい文体に哲学的な比喩が散りばめられているのだけれど、決して難解な文章ではない。
むしろ映像のように克明な情景描写で、「A」との印象的な出会いと風変わりな恋愛、そして訪れる悲劇が語られる。
ストーリーだけなら、まるでロマンス小説のようにも聞こえるけれど一筋縄ではいかない。
読み進めるにつれて恋愛に感情移入するどころか、漠然とした不安に惑わされてしまうのは、この小説が多くの奇妙な謎と暗示に満ちているからだ。
まず、視線の主である主人公が男なのか女なのかもわからない。
「私」が愛する「A」の性別もやはり不明であり、他の細部については筆を尽くしながら決定的な描写を意図的に避けている(訳者のあとがきによれば、『多くの品詞が女性形をもつフランス語で、人物の性別を決して漏らすことなく小説を書き上げたことは、作者がいかにフランス語を熟知しているかを示す』)。
一方で明示されるのは、「私」が白人であり、「A」が黒人であるということ。
神学校の学生として知的世界に属する研究者と、美しい魅力的な身体を糧として生きるダンサーという構図もまた象徴的である。
「私」は「A」に強烈に惹かれ、官能に溺れながらも、精神の背後にあるキリスト教の伝統や規律と肉体的な欲望とのあいだで葛藤し、その状況を醒めた目で考察し、分析しようとする。
謎かけに答えられない者を貪り食らい、謎を解かれた時には我が身を滅ぼしてしまう伝説の怪物。
なぜ「スフィンクス」がタイトルに選ばれたのか。
その答えが最後に解き明かされるのではないかという都合のいい予測は、物語の途中でまたしても外れてしまうことになる。
「私」自身が「A」に向かって「スフィンクス」と呼びかけているからだ。
「私」にとっての「A」は、つまり愛とは、謎そのものだ。読み解くことのできない文字のように。
作者のアンヌ・ガレタは当時二十三歳、この小説で華々しくデビューした。
読んでいるあいだじゅう、私が感じていたのは、まさに処女作らしい純粋なエネルギーにあふれた作品だということだ。
実体のないものを言葉にすることによって何かが変わる、変えられると頑なに信じる者だけがもつ、身勝手ともいえる強さ。
作品にどこまで作者自身の体験が投影されているのかはわからない。
リアリティが優れた小説の条件だとも思わないけれど、あえて登場人物の性別を伏せる計算された技巧や、読者に感情移入を許さない構成は、強烈な衝動と対立する自己抑制のようにも思える。
「記憶」に「文字」という肉体を与える手段として、タイプライターが重要な役割を果たしていることも興味深い。
ホテルの一室に閉じこもって書いた回想記がついに完成したとき、「私」はこのように表現している。
了、と書ける時が来た。記憶はとうとう囲いこまれた。文章のまわりに結晶になって、記憶はもうばらばらにさまよいだすことはあるまい。
タイプライターを閉じ、椅子を後ろに引いた「私」は、長い時間ずっと同じ姿勢でいたことにようやく気づいただろう。
床に下ろしたタイプライターのずっしりと腕にかかる重さ、指の関節を鳴らす音。椅子の軋み。
ここに感じられるのは、単なる記号を集めつなぎあわせたもの、くっきりとした輪郭をもつ活字という意味だけでなく、ある概念として誕生したばかりの言葉と、同時に自分の身体へ向けられた強い現実感だ。
こころと身体が固く結びついて生まれた「タイプで打った紙の低い山」を見つめながら、「私」はこのように断言している。「随筆とか小説、一級の価値を持った回想録といったものとは、それは全く違っている」と。
ではいったい何なのか。
場所と時間を飛びこえて、今は自分の目の前にある、この本は何だったのか。
そう考えたとき、装丁の、表音(アルファベット)と等しく並んでいる表意(に見えるもの)から感じた逞しい植物のような生命力が改めて強く蘇ってくる。
目に見えない観念は、活字になった時点で進化が止まったようにそこから変わることはできないが、その死と引き換えにして、別の新しい身体に生まれ変わるのだろう。
装丁がひとつの大きな比喩になっているおかげで、読んだだけではわからないことに気づかせてもらえた。人間にとって文字とは何なのか、言葉とは何かを考えさせてくれる魔法の力が、この一冊にはある。