文字による文字のための文字のサイト

type.center

第13回 command + Z?『インターネット的』

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第13回 command + Z?『インターネット的』

第13回 command + Z?

『インターネット的』(PHP文庫)糸井重里 装丁:秋山具義

「ショートカット」という言葉を聞いて、パソコンのキーボードを思い浮かべるようになったのはいつごろからだろう。

ひと昔前は「ショートカット」といえば、かわいい女子の最強ヘアスタイルのことだった。

それがいつの間にか、当たり前のようにショートカットキーを叩いて、一瞬のうちにデータをコピーしたり、保存したりしている。たいへん便利だ。

 人は便利にすぐ慣れる。

 先日、夜中に家でスープをつくっていて、うっかりお酒と間違えて大量の酢を鍋に入れてしまった。

取り返しのつかないことが起きたと気づくまでにやや時間がかかり、そして事態を把握した瞬間、愕然とした。

料理が台無しになったからではない。

いや、ガッカリしたけど、その感情を一瞬忘れるくらい気をとられたことがある。

反射的に、自分の意思とは関係なく脳の回路が反応して、ショートカットキーの「command + Z」(戻る)に手を伸ばすような感覚が走ったのだった。

もう元には戻らない、と理解する手前で、「command + Z」を押さなくちゃ、と確かに思ったのだ。誤入力が確定する前に、早く、と。

 十年前には想像もしなかったことだ。

一日中、パソコンの前にすわっていることだって珍しくないんだもの。

仕事の気分が抜けなくても不思議じゃない、と自分で笑いながら、ものすごく、ショックだった。

何だかデジタルに飼い慣らされているようで、イヤな感じがしたのだ。

 そんなとき、たまたま書店で目に入った本が『インターネット的』(糸井重里)である。

2014年に出た復刊で、最初に出版されたのはずいぶん前、2001年のことだった。

『ほぼ日刊イトイ新聞』の主宰者である糸井重里が、Webサイトを始めて間もないころにインターネット時代を考察した本である。

つまり書かれている内容は2001年当時における「これからの社会はきっとこうなっていくだろう」という展望が中心なのだが、それが現況を見事にあらわしている「予言の書」と注目をあつめ、10年の時を経て文庫化の運びとなったらしい。

なぜいま再評価されているのか、ということを探るよりも、「なぜいままで見つけられないまま埋もれていたのか?」ということのほうに、この本質が表れているように思います。

 これは文庫化にあたって書かれた巻末「続・インターネット的」からの引用だけれど、その文章を読んで思わず私がしたことは、新書として出版されたときどんな装丁だったのかをスマートフォンで検索してみることだった(それも10年前には考えられなかったことだ)。

二冊を見比べてみると(以前の装丁が気になる方はインターネットで調べていただくとして)、装い新たに生まれ変わった文庫版、何だか「本らしくない」本である。

 本らしくない、という第一印象で気がついたのは、自分が装丁というものに対して、一枚絵のような構図や、きれいに包装された感じを無意識に求めているのだなということ。

ところがこの本では、上下の文字が一部切れてしまっている。見渡すことのできない電脳空間がひろがっているというか、スクロールの途中で止まったパソコンの画面みたいだ。

 タイトルはゴシック体、著者名は明朝体で、区別できないことはないけれど、文字の色とサイズが同じせいか、どちらかを目立たせようという意図も感じられない。どこまでがタイトルなのか判読できず、戸惑うひとも多いだろう。

正直いって、著者がこれだけのビッグネームじゃなかったら通じない、かなり大胆な方法である。

しかも、まったく同じタイトルと著者名がふたつ並んでいるのはなぜなのか。

思わず立ち止まって眺め、脳裏をよぎったのは、数日前に起きた料理中の出来事である。

ショートカットキーの「command +」。

ああ、まただ。

あの時と同じだ。

いま目の前にあるのは最初から固定された文字列なのに、勝手に手がキーボードの上を動いて、自分が文字のカタマリをコピー&ペーストしたような感覚になった。

 この本を読みたいと思ったのはきっと、その体感と無関係ではない。

ネット社会の中で、これまでモヤモヤと感じていたのに言葉にできなかったことが、ここには書かれている気がした。

 「インターネット的であることには、パソコンすら必要ではない」と、著者は冒頭からきっぱり宣言する。

「多くの人は、インターネットとコンピュータとデジタルをごっちゃにしている」

10年前の糸井さんに、ズバリ指摘される私。はい。ごっちゃにして生きてました。

「インターネット的」と言った場合は、インターネット自体がもたらす社会の関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。もっとイメージしやすいたとえでいうなら、インターネットと「インターネット的」のちがいは、自動車とモータリゼーションのちがいに似ているでしょう。

 つまり「インターネット的」とは、情報技術に精通していること、ましてやコンピュータに依存することを指すのではない。

人生には「command + Z」が効かないと嘆くのではなく、どんなに遠いところにいるひとやモノとも、思いがあればショートカット(近道)でつながる可能性があると考えること。生き方や価値観、哲学に近いものだ。

「大量に生産して大量に売る」という資本主義のルールに縛られず、毎年楽しみにしてくれる一定数の客に向けて、つくれる分量だけ地酒をつくる地方の杜氏も「きわめてインターネット的」なのだと著者は語る。

さらに、当時はまだソーシャルメディアが普及していなかったにも関わらず、「情報はたくさん出した人のところに集まる」と明言し、全国の主婦が家庭料理のレシピを投稿してシェアするビジネスや、在庫をもたず必要とされる数だけつくって売ることで成り立つオンデマンド方式の市場拡大も予測している。

 だからまさに「予言の書」なのだけど、多くの人がこの本を読んで「うん、その通り、今はこんな世の中になっているよな」と確認したがっている、インターネット登場以後の世界を改めて顧みたがっている、という現象は、よく考えてみると不思議なことだ。

インターネットという道具があまりにも身近になったからこそ、その代償も、メリットも見えづらくなっているのではないだろうか。

この『インターネット的』という本にしても、いろんな理由で、一冊の本として本屋さんで売るといういままでどおりの商品のかたちをしていますが、こういうことがいつまでも同じように続いていくともかぎりません。

 私たちが望むと望まざるとにかかわらず、手に入れた生活と同じように、読書のあり方も、この本が書かれたときから大きく変わったように思う。

「インターネット的な」本とはいったい何か。

あるいは「インターネット的でない」本とは、何だったのか。

そしてこの本は、どちらにあてはまるのだろう。その答えは再刊されたいまも同じだろうか。

そんなことを考えていると、本書の装丁は、この先に向かって変化してゆく「本のかたち」の、ある覚悟を示しているように思えてくるのだ。

2016年4月21日

シェア

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

連載記事一覧
今日
昨日
おととい
ちかごろ
あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わゐゑを ん がぎぐげご ざじずぜぞ だぢづでど ばびぶべぼ ぱぴぷぺぽ 0123456789.
連載記事一覧
文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第9回 嫌いになれない『嫌われる勇気-自己啓発の源流「…

文字食が一目惚れした「文字だけの装丁」を紹介するコラム連載第9回目。今回はアドラーブームの火付け役となったといわれるベストセラー、岸見一郎/古賀史健『嫌われる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)。嫌よ嫌よも好きのうち? 年末年始の読書にオススメの一冊です。