第15回 デコレーションケーキ 『憤死』
第15回 デコレーションケーキ
『憤死』(河出書房新社)綿矢りさ 装丁:名久井直子
思わず「ぷんし」と読みそうになった。
この本を初めて見たときのことだ。
『憤死』。
ちょっと度肝を抜かれるタイトルである。本屋でつい二度見してしまったのは、きっと私だけではないと思う。
「憤死」とは、激しい怒りのうちに死ぬという意味だ。
歴史の教科書に出てくるような人物が、「激昂しすぎて頭の血管が切れ」たり、「敗戦や家臣の裏切りなど不遇の目にあい、そのまま巻き返せずに、世を恨みながら」無念の最期を迎える。
そんなイメージは何となく頭にあっても、ほんものの落ち武者を実際に見たことがないのと同じで、「文字」でしか知らない言葉。
ところが、この装丁の文字はどうだ。
悲哀とはほど遠い、丸々と肥えた書体で、「頭の中はバラ色」といわんばかりの軽薄なピンク。しかもよく見ればハートマークつきである。
こんな「憤死」は見たことがない。
空飛ぶ風船みたいにとつぜん視界に入ってきた文字は、落ち武者どころか、ぶりっ子キャラの「プンプン」を連想させる。

タイトルからもうひとつ思い出したこと。
大学に通っていたころ、小説の授業があった。
古い校舎の奥にある、西日のさす小さい教室で、毎週、課題の本を持ち寄って感想を話した。
先生は有名な小説家だった。
「小説家は儲からないし、休みもないし、いいことないぞ」という忠告ともいえない愚痴を学生にこぼすことも多かったけれど、ある日、先生は「もし君たちがいつか小説を書くなら、不吉なタイトルをつけてはいけない」と言った。
「小説はタイトルがだいじだ。新人賞をとって、売れた小説に、人を絶望させるタイトルはない。『風の歌を聴け』とか、『太陽の季節』とか、そうそう、綿矢りさの『インストール』とかな」
だから俺の小説は売れんのだ。そう言って先生は笑った。
そんなことが妙に思い出されるのは、当時デビューして間もなかった綿矢りさの名前が出たからだろう。
あのとき私がぼんやりと思ったことは、言葉にも光と闇があり、それがポジとネガみたいに、人の心に感光するものなんだな、ということだった。
私にとっては耳慣れない無機質なパソコン用語に過ぎなかった「インストール」という言葉にも、人を絶望させない、光る部分がある。
そのことに自分は気づいていただろうか。
そう思ったら、若干十七歳の作者の鋭い感性がうらやましかった。
それで、最新刊の『憤死』を見たとき、唖然として思ったのだ。
先生。
この書体でかかれた「憤死」は、不吉ですか?
小中学校時代の女友達が、自殺未遂をして入院していると噂に聞いたので、興味本位で見舞いに行くことにした。
表題作の『憤死』は、こんな一文ではじまる。
その書き出しがすでに歪んだ関係を予感させるように、綿矢りさの小説で描かれる人物はみんな、積極的に友達になりたいとは思えない人たちだ。それでいて、具体的な誰かの顔を思い出しそうになるから怖さがある。
裕福な家庭で甘やかされて育ち、高慢で、妄信的なまでに自分の魅力を疑わない佳穂。 語り手の「私」は昔から彼女と仲がいいと思われているが、ほんとうは「彼女が好きではなく、むしろ嫌い」で、とはいっても他に友達がいないから仕方なく一緒にいただけだった。
しかし私たちは平等ではなかった。佳穂は私を見下していて、常に上から物を言い、私を家来のように扱った。
その佳穂が自殺未遂をしたという。
何が彼女を自殺に走らせたのか。
佳穂と再会した「私」は、子どものころの回想とともに、真相を聞くことになる。
彼女が自殺しようとした理由を知ったとき、それまで頭の上をふわふわと浮かんでいたタイトルが、目の前にピタリと着地する。
それはつまり、なぜこのかたちをしているのかわかる、ということだ。
ただひたすら純度の高いわがままと、神々しいほどの激しい怒りが巻き起こす死が、憤死だ。死は腹立ちのおまけにすぎない。
物語の終わり近く、佳穂がショートケーキを食べる場面がある。
「どうしてそんなにショートケーキが好きなの。いちごが好物なの?」
と問う「私」に、佳穂は答える。
「ううん、味はべつにこだわりないんだけど。なんていうか、特別な華やかさがあるじゃない」
脂肪分の高い生クリームで言葉をデコレーションしたような装丁を見たとき、心の底から可愛いとは思えない感じ、どこか滑稽な感じがした。
その感覚は、佳穂に向けられる「私」の醒めた冷ややかな目線、心の内にかくしもっている悪意と重なり合う。
一見タブーのような、人を騙すようなタイトルが、この文字、この書体だからこそ成立している。
「憤死」という言葉にひそむ純粋な狂気と、あふれる生命感に気づかせてくれる。
それはまるで作者と装丁家の共同作業のようにも思える。
彼らは私たちの顔に浮かぶおどろきの反応を楽しみ、読む表情を静かに見つめているだろう。