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第20回 美しい結晶にはなれなかった『東京藝大物語』

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第20回 美しい結晶にはなれなかった『東京藝大物語』

第20回 美しい結晶にはなれなかった

『東京藝大物語』(講談社)茂木健一郎 装丁:祖父江慎

 ひとめで誰の装丁かわかった、というのは、装丁家にしてみれば必ずしも褒め言葉ではないかもしれない。

本にとって「本人」とは、当然、作者であるべきで、装丁家を指すのではない。

でも、「あの人」の場合には、みんな納得するに違いない。そう思えてしまうのは、数々のユニークな装丁で読者の意表をつき、楽しませているからだろうか。

なぜわかったかというと、タイトルと著者名の文字が、以前見た祖父江慎さんの写真に似ていたからだ。

それは頭の上から見下ろすように撮った、顔と胴体のアンバランスが妙に可笑しい不思議な写真で、大人なのに幼児のようにも見える不気味なかわいさ (そう、かわいいのだ! なぜか)は、これらの文字にも通じるところがある。

 見覚えのある写真を思い出すような気持ちで眺めていたら、「藝」の一部に自然と目がとまった。

「藝」という文字をこんなに細部まで見たことはない。そう考えるのとほぼ同時に、ある奇妙なことに気づく。

あれ、これはカタカナの「ン」ではないか。

その間、たった一、二秒の出来事だ。

見方が変わった瞬間、平坦だった白い世界は、ぐわりと屈折するレンズをのぞいたように異なる様相を見せ始める。

 漢字というものがさまざまな部首やつくりの集合体であることは誰でも知っているだろう。

でもこれは何だか変だ。

「ム」や「八」や「〆」、「五」や「1」や、「小」や「ロ」。

どんどん、文字を構成している部品がバラバラになって浮かび上がってくる。

カタカナも、数字も、明朝もゴシックも。

確かな奥行きとともに、異質なものが巧妙に組み合わせられている。

しかし決して混然一体ではない。

「大」の字の、乱暴に重なったウロコに息をのむ。

わ。

思わず、身を引いた。

壁のしみに見えていたものが、生きている虫だったことに気づくような感覚。

本当は在るはずのないものなのか。

それとも、気づかなかっただけで、ずっとそこにいたのだろうか。

 この本は、東京藝術大学に非常勤講師として勤めることになった主人公と、そこで知り合った個性豊かな学生たちとの交流を描いた物語だ。

東京藝大といえば、若き芸術家たちが集まる日本屈指の難関大学である。

一浪、二浪は当たり前。凄まじい競争率の試験を勝ち抜いて入学を認められた彼らだが、卒業後にアーティストとして生きていける人材は、10年にひとりくらいしか出ないのだという。

世間から見ればごく一握りのエリート集団でも、そのほとんどが、才能に恵まれながら、いや、むしろ恵まれているがゆえに芸術的理想の前で人一倍もがき苦しみ、自分に失望して夢を諦めざるをえない「その他大多数」だという現実。

身も心も芸術に捧げることを許された学生生活は、「ユートピア」の幸福の裏に、表現者としては致命的な「ぬるま湯」にいるという劣等感がひそんでいる。

普通は目にすることのない世界で出会った「愚かで向こう見ずな若者たちの群れ」は、常識の枠から外れた言動で主人公を驚かせ、ときに感動を呼び起こす。

 著者は「あの」茂木健一郎さんである。私にはそのことが意外だった。

メディアによく登場する有名な脳科学者と、小説、という表現手段とが、すぐには結びつかなかったからだ。

小説とはいっても、一流のアーティストや文化人が実名でばんばん出てくる。

実際に著者は2002年から2007年まで東京藝大の非常勤講師を勤めており、描かれているエピソードも大部分が実話であるという。

芸術作品の価値は、それを前にしたときに感じるクオリアの質で決まる。
それは言語化できるものではない。
それは記号化できるものではない。
安易にマーケットにのるものでもない。

 この言葉は、初めての講義で用いられる宣誓文の一部だ。

脳とクオリアの関係は、脳科学者である茂木さんの大きな研究テーマであり、著者自身を色濃く投影した主人公であることが冒頭から示されている。

驚くことに、言葉の芸術である文学さえ、作品の価値は言語化も記号化もできないクオリア体験の質で決まるのである。
ふりかえって見れば、人生で大切なことは、全て言語化できないことばかりじゃないか。
(中略)
なにげない日常に由来し、天上の気配の中に結晶化する。そんなことが作品を前にして感じられた時、それを傑作と呼び、感謝する。生きる歓びがこみ上げる。
すでに流通しているものなど、放っておけ。自らの内なる、最も切実な、甘美な、哀しきクオリアにこそ寄り添え。そして、そのクオリアをポップに昇華せよ。

「バカで生意気」な学生たちとの丁々発止のやりとりも、授業に招かれた豪華なゲストたちの熱い講義も、その場に居合わせる幸運を与えられた人々が妬ましくなるほどに刺激的だ。いい小説は役に立つ。自分も学生のひとりになったような気持ちで、しみじみと思った。

当時の回想録を書くにあたって、著者が小説という形を借りたこともまた、「クオリア」の昇華であり、「結晶化」だといえるかもしれない。

自身の体験から得た「えもいわれぬ感覚」を何かの形で留めておきたくて、その証を残しておきたくて、書かずにはいられなかったのだろう。

でもただセンチメンタルな感情にまかせて筆を走らせたのでもない。

主人公をあらわす一人称が一切出てこないことに、著者が認識している物語との距離感――今ここにない場所、過ぎ去った時間を描くことへの覚悟があらわれているように思う。

「居場所というのはさ、ある時は当たり前だけれども、失われるのはあっという間だからなあ。」

 芸術作品とは、この世に同じ形は2つとない「結晶」なのだと思っていた。

たとえ作品を生みだす才能があっても、運も含めて、結晶が成長するときのわずかな条件の違いによって姿を変え、対称が整った自然の造形美は失われてゆく。

理科の教科書に載っている雪の結晶みたいに、輝く星のような結晶になり、さらにその美しさを人に評価されるのは、ほんとうにごく僅かで、奇跡みたいなことなのだ。無数の雪のほとんどは、一部が欠けた不完全な結晶だという。

でも、それらには人の心を動かす力がないのだろうか。芸術的価値があるとはいえないのだろうか。

その問いが、「美しい結晶にはなれなかった」すべての――かつての若者たちに捧げられる青春小説になった。

物語は、すでに装丁から始まっている。

不格好なもの、間違っているものをおもしろがり、愛おしい魅力を見出すまなざしは、「文字」という結晶にも等しく向けられているのだ。

2017年1月2日

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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

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