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第24回 愛と表記の王国 『世界のかわいいパン』

文字食のコラム 「その字にさせてよ」

第24回 愛と表記の王国 『世界のかわいいパン』

第24回 愛と表記の王国

『世界のかわいいパン』(パイ インターナショナル)ぱんとたまねぎ/井上好文 装丁:大島依提亜

 パンだ。

いや、「パン」だ。

さっきからずっと、奇妙な自問自答を繰り返している。

小人のいたずらを発見したように、にやにやしながら本のカバーを眺める私は、傍から見ればきっと薄気味悪いひとに違いない。

幸せを絵に描いたような、パン。

艶のある見事な焼き色と、俯瞰の写真でさえはっきりとわかる隆起に恍惚として胸がいっぱいになる。

私がこの文字(パンだけど)から読みとるのは、ただ物体の名前を示すだけの記号ではない。

たとえば、子どものころ大好きだった絵本『からすのパン屋さん』。

あるいは、日本人なら誰もが知っているアニメーション、「愛と勇気が友達」の正義の味方「アンパンマン」。

次々に、温かみのある懐かしい記憶が呼び起こされる。

パンはもちろん好きだけど、特別な思い入れがあるなんて、深く考えたこともなかったのに。

かぐわしくも愛らしい、幸福感のまえにかしづいたそのときから、不思議な王国の住人になった。

 パンからできている文字を真面目に解説するのも妙なはなしだけれど、これは、たまたまパンを並べてみたら文字に見えた、という単純なことではない。

文字として、明確な意思をもって、ちゃんとオリジナルの「書体」になっていることが重要なのだ。

色も質量もムラのない、何の変哲もないパンを、何百本、何千本と毎日焼きつづける技術がなければ、(「文字」に見えることはあっても)そこに「書体」を感じさせることはできない。

それは本物のフォントについてもいえることだ。書体をつくるという仕事は、寡黙で根気強いパン職人に似ている。

 この書体の決め手は、何といっても「ン」の文字の一画目が線ではなく丸(のパン)でできているところ。愛嬌に満ちた鼻みたいだ。

それが本当に絶妙なバランスで、もっと小さければ「パ」の半濁点と区別がつかなくなるだろうし、大きすぎれば「ン」が空中分解してしまう、ちょうどいいサイズ(のパン)が選ばれている。

「世界のかわいい」という手書きの袋文字と上下に並んでいても、まったく違和感がなく、まるでパンの国の公用語であるかのように堂々と佇むすがたがいい。

「フォント」として成立しているからこそ、面白おかしいはずのパンの文字よりも手書き文字のほうがよっぽどカジュアルに見える。

『世界のかわいいパン』には、世界中のさまざまな国で食べられている、さまざまなパンが紹介されている。タイトルが示す通り、どのパンも非常にユニークで、意外なほどフォトジェニックだ。

この本を読んで知ったのだが、「パン」の語源は「食べもの」という意味で、かつては食物そのものを指す言葉であったらしい。

ふっくらしたやわらかいパンと、どっしりハード系のパンがあることくらいは知っていたけれど、小麦粉と水、酵母、塩といったシンプルな材料が基本でありながら、国や地域によってこれほどたくさんの種類があることにも驚いた。

ヨーロッパや北欧で食べられている「シュヴァルツヴェルダーブロート」も、「カリャランピーラッカ」も、まあ、要するにパンなのだけど、日本ではあまり聞き慣れない、ややこしい名前だ。

パンの写真に添えられた落書きのようなイラストに「落ちついて読まないと分からなくなるね」というセリフがあり、思わず笑ってしまった。

 一方、子どものころからよく知っている、おなじみのパンも掲載されている。

「メロンパン」とか、「ジャムパン」とか、日本生まれのパンは実に単純明快。名が体を表すというか、風通しのいい、シンプルな潔さに感動する。

本書によると「パンは小麦粉を主食とする国々にとって文化そのもの。日本で独自の進化をとげたパンにも、日本が映し出されている」という。

その個性は、言語の違いにも関係しているのではないかと、ふと思った。

言葉がなければ概念が存在しないのと同じように、多様な表記形態を持つ日本では、「パン」という食べものに対して、漢字でも平仮名でもアルファベットでもない、カタカナ二文字でしかあらわすことのできないイメージがあり、愛着を育んできたのではないか。

その世界観を伝えるために生まれた「パンの文字」にとって、「パン」は最高の書体見本だ。

シニフィアンとシニフィエの境目がなくなり、ことばの外面と内面の完全なる一致によって、目と心が溶け合う幸せ。

だから私はこの本の作り手が心からうらやましい。だってこんなふうに指をくわえて見ているだけじゃなく、本当に、撮影したそばからパンの文字をパクパク食べてしまっただろうから。どんなに心浮き立つ体験だろう。

 ちなみに、この本のおすすめの楽しみ方は、表紙の文字が、どこの、何というパンからできているのかを当てることだ。

まるで書体見本帳を眺めるような気持ちで、パンを見比べるのは初めてだった。

一冊を読み終えた後は、おいしい文字でお腹いっぱい、と書きたいところだけれど、嘘。

今は無性にパンが食べたい。

2017年5月1日

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文字食のコラム 「その字にさせてよ」

正木香子

文筆家。文字を食して言葉を味わう「文字食」日々実践をモットーに、エッセイ・コラム・ルポルタージュなどの執筆を行う。著書に『文字の食卓』(本の雑誌社)、『本を読む人のための書体入門』(星海社新書)、雑誌『デザインのひきだし』にて「もじのひと」連載中。

http://www.mojisyoku.jp/

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