「凸版文久体ができるまで 3」最終セッションでは小宮山氏が登壇
印刷博物館は、P&Pギャラリーにおいて開催した企画展「印刷書体のできるまで 活字フォントからデジタルフォントへ」にあわせ、凸版文久体のフォント制作に携わったデザイナーなどを招聘し、これまで2つの講演会を開催してきた。その最終セッションとして6月3日、祖父江慎氏とともに凸版文久体制作の監修を務めた小宮山博史(佐藤タイポグラフィー研究所)による講演会が行われた。
小宮山氏は、欧州や中国における活字文化の変遷を辿るとともに、日本に渡り独自の進化を遂げてきた活字について解説。さらに、新たに生まれ変わった凸版文久体について総括するとともに書体制作における今後の課題などを提言した。
「凸版文久体ができるまで 3」
最終セッションでは小宮山氏が登壇

最終セッションも多くの聴講者が訪れた
出版文化とともに普及した明朝体
小宮山氏は、まず、日本に伝わった明朝体の源流について1805年につくられたフランス帝立印刷所活字見本「主の祈り」をもとに解説した。

1805年にフランスで使われた明朝体
「これはナポレオンの戴冠式の招待状として作成されたもの。しかし、なぜ、明朝体が使われたのか。ひとつは、中国との貿易開始を目的として相手国の文字を使い、友好関係を示したこと。もうひとつは、キリスト教の布教活動として使用されていたと考えている」
また、楷書体ではなく、明朝体が使われた理由について、小宮山氏は「当時の中国では、楷書体が主として使われていたが、出版活動が盛んになったことから版下を書く人が必要となった。だが、楷書はある程度の訓練を重ねた人しか書くことができない。しかし、明朝体はある一定のデザイン要素を覚えてしまえば誰でも書くことができる。つまり、出版活動と書体は大きく関連している。その昔、ヨーロッパで楷書体ではなく、明朝体が使われたのは、そういった背景があったからだと推察している」
さまざまな経路を経て日本に伝わった活字
次に話しは、1844年にアメリカ長老会が中国に設立した出版・印刷機構「美華書館」ついて。
「1858年、美華書館に派遣された宣教師のウィリアム・ギャンブルは、2年間にわたり、よく使われる活字を調査した。その結果、使用頻度の高い6,000字を選定した。これにより、初めて活字が工業製品として成立することとなった。のちにウィリアム・ギャンブルは来日するが、日本にもその活字が運ばれている。これが東アジアから日本に伝わった初めての活字だと思う」
紙とデジタルへの対応を両立した新たな凸版文久体
そして本題の凸版文久体について。

小宮山氏
小宮山氏は、まず、「私は凸版文久体を改刻すると聞いたとき、まったく新しいものに変わると考えていた。だが、実際には、従来の書体を継承したもので、少しガッカリした。しかし、率直な感想として、よく出来ていると思う」と、今回の凸版文久体の改刻について、やや不満ともとれる感想を述べる一方、書体制作に携わった各担当者に対し「書体制作は、本当に大変な作業である。つまり、本来の特徴を残しながら新しいものをつくるのは本当に大変なこと」と、その労に改めて敬意を表した。
さらに小宮山氏は、今回の改刻における課題を次のように説明。
「細から太に変わるとき、その解釈の仕方によって、形は大きく変わってしまう。漢字とカタカナをつくるときに一番大事なのは字面の大きさとウェイトである。その中で太さをどう設定するのか。また、横線の先端の処理や払いの先端の太さなど、多くの課題が山積していたはず。今回の凸版文久体の改刻は、印刷物だけでなく、画面上で見ることができる書体がコンセプトであった。この両方のバランスを調整することが難しかったと思う」
今後の課題は書体制作の技術伝承
そして、最後に書体デザインの今後の在り方について、次のように問題を提議した。
「書体づくりのノウハウが、まったく伝わっていないのが現状である。ほとんどが、師匠と弟子の沈黙の会話の中でしか伝わっていない。そのため文書として存在していない。これはとても残念なことである。これら技術を伝承するためにも文書としてまとめていくことが、これからの書体制作に携わる人たちの役目だと思う」
※なお、当記事はTypeSquareのwebフォント「凸版文久明朝R」を使用しました。